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鉄砲州神社のお祭り
2008/08/02
2008年5月の連休の3日に久しぶりに鉄砲洲神社のお祭りに孫たちといっしょに参加しました。孫や小さい子供たちと一緒に山車を引きながら、私の子供のころの昔の祭りの様子が急に思い出されてきました。

昭和30年代(1955年)の頃の祭りは、それはそれはにぎやかで、1週間前位から町全体がじょじょに祭りにむけた飾りつけに変わっていく様子は、子供心にうきうきするものでした。かなり前に家々に回覧板が回り、その年の新しいデザインのゆかたの生地の注文をうけていました。新富町、明石、湊、入船等々それぞれ違い、どの町会の人かゆかたを着て歩くだけでわかるのでした。3年に1度の本祭り。土曜日の学校の子供達は授業が早く終わらないかと、みんなそわそわして落ち着かなく、終了のベルが鳴ると同時に走るように帰って行きました。どうしてそんなに急いだのか?昼御飯を食べて、ゆかたに着替えて、高学年の男子は子供神輿、低学年や女子は山車を引きに行くのでした。元気な女の子の女神輿もあり、いでたちも男の子と同じ半纏、ねじり鉢巻、地下足袋、さらしをまき、顔は鼻にみずおしろいで白くひとすじ、目尻と口に紅をさしたようすは、祭りでしか見られないものでした。山車をひいた子供達には菓子、弁当などたくさんのおみやげがもらえ、特に神輿を担いだ人にはおみやげの他に銭湯の無料券、大人はお酒などがもらえるのでした。
神輿は宮元、湊三丁目、明石町、入船一丁目、入船二丁目、入船三丁目、新富町の7幾があり、それぞれの町内の商店街の一角に2週間ぐらいかけて、製作して祭りが終わるとともに惜しげもなく取り壊される「御仮屋」という中に神輿がかざられ、その前にお神酒やお供え物が供えられていました。 その御仮屋の隣りに若い衆溜まりがあり、祭礼期間中は青年部員が交代で泊り込んで「お灯守り」とよばれる不寝番で神輿を守っているのでした。神輿の担ぎ手は、半纏にぱっち、地下足袋、はちまき、半纏のせなかには町内の神輿ごとに違ったデザインがされて、それぞれに競いあう姿はとても粋なものでした。そのころは担ぎ手が多すぎて、神輿の周辺には担げない大勢の人で溢れていました。大人神輿、こども神輿、おんな神輿、山車、その上私の住んでいた新富町には、他の町内にはない「てこまい」と呼んでいた150から200人ぐらいの花柳界の綺麗どころ全員が若衆の姿で長いつえをつき「チャリン チャリン」と行進する様は、歌舞伎を見ているような綺麗さで注目の的でした。
夜になると早めの夕飯を食べて、鉄砲洲神社の夜店に行くので子供にとって、忙しい1日でした。神社に向かう道は家々の軒下に提灯と造花が飾られて、両側が提灯の灯で道がうかびあがり幻想的な風景でした。神社に近づくにつれて、両側に露店が並び、先が見えないほどでした。その真中を人々がぞろぞろ行きかい、前にすすめないほどでした。
露店には金魚すくい、ヨウヨウつり、焼きそば、あんず飴、今は殆ど見られない、海ほうずき、かるめら焼き、ハッカパイプ等カーバイトのにおいと、醤油のこげたにおいの混じりあった中、何を買おうか迷いながら見て回っていました。祭りの間は、子供たちにとり普段と違った時間が流れるのでした。
あの頃の祭りは、戦後の復興にむかう人々の力、特に商店の方々の力が大きかったように思います。1980年頃からのバブルで多くの商店がビジネスビルに変わり、住人がどんどん減っていって、あの頃の盛大な祭りを覚えている人々も少なくなりました。
最近、マンションが多くなり住民が増えたようですが、かつての住民の心いきと町内のまとまりは、二度とないように思いました。昔この界隈に住んでいた人がなつかしがって、この祭り見にきてもあの盛大な祭りを知る人にとって、今の祭りを見ると、私と同じようにさびしい気持ちになるのではないでしょうか? (I.Yamada)
日比谷入江の埋立て
2006/11/17
現在の新富町界隈、その昔はどういう所だったのでしょうか。
この地図は徳川家康の江戸入り当時のものです。下部中央の「江戸前島」は現在の大手町・丸の内・有楽町・内幸町および日本橋・京橋・銀座にあたり、島の東海岸付近が新富町にあたります。島の西側の「日比谷入江」という入り海は皇居外苑・日比谷公園・西新橋にあたります。
その家康が江戸で最初に着手したのは、天正18~19年(1590~1591)に「道三堀」を掘らせ、沿海運河を確定させ江戸城と行徳間の安定した水路を確保したことでした。なぜ行徳なのか?それは行徳が当時の関東地方の唯一の製塩産地だったからです。塩は、武田信玄と上杉謙信との有名なエピソードにあるように当時の基本的な戦略物資でした。塩の確保は江戸を関東地方の「要」にするための都市計画の第一歩でした。
次に家康は「日比谷入江」を軍港に「江戸前島」東岸を商港として江戸建設を始めます。家康はオランダ船の乗員であったヤン・ヨーステンを砲術顧問に、ウイリアム・アダムスを外交顧問に迎えました。ヤン・ヨーステン(漢字では八代洲)に与えられ現在の和田倉門から日比谷までの堀端に沿った地は当時八代洲河岸と呼ばれました。明治以後、八重洲町となり、昭和4年から丸の内と改称されました。現在、八重洲という地名は東京駅東側で中央区の町名として残っています。
アダムスのほうは三浦安針の名で有名で、後の日本橋魚河岸の一角に安針町を与えられています。このほか、中国人薬剤師の呂一官に通二丁目、同じく貿易商の八官に八官町(銀座)が与えられ、「江戸前島」の町づくりは国際色豊かなものでした。。
江戸の建設は天下普請により、徳川家の負担なしで全国の大名の負担で行われました。その中で最大なものは「日比谷入江」の埋め立てで、江戸城と「江戸前島」を陸つづきにしたことでした。埋め立ての理由は築城からでる残土の処理と同時に軍港の役割の廃止とともに、大名の宅地造成にありました。この埋立地の大名屋敷地域が明治の軍用地、官庁街そして現在のビジネス街になっていくのです。
(I.Yamada)
川の思い出
2006/10/25
新富町、銀座、八丁堀かいわいは、とても歴史のあるところです。時代劇にも多く登場します。劇中で地名などが出てくると、「ああ……あそこらへんなんだぁ」何となく嬉しいような懐かしいような気になります。
いま面影はありませんが、かつてこのあたり川が縦横に流れている水路の町でした。昭和20~30年代、まだ自動車も少なく運搬といえば船が重要な手段でした。
海が近かったので、潮の満ち引きがあり、川にはくらげが浮いていて子供たちがそれに石を投げて遊んでいました。現在の首都高速・京橋口の傍らの公園は、そのころ空き地で川に下りられる階段があり、降りていって手で川の水にさわることができました。当時、このあたりに住んでいた四歳の私には、おぼろげな記憶があります。川の水に触れて遊んでいるうちに、頭から川に落ちてしまいました。その後、近くで働いていた大工さんが助けてくれたこと、お巡りさんが来たことを覚えています。
「タクシー運転手も橋の名前を覚えたら一人前」といわれたくらい、当時の中央区は橋の多い地域でした。特に珍しいのは、中央区役所前にある三つに分かれている橋です。この橋のあたりでは、海苔を作っている光景が見られました。海からとった生のりを四角い枠に流しこみます。それがよしずの上に並べられ川に沿って干してありました。その仕事をしていたのでしょうか、同級生には、船に住んでそこから学校に通う友達もいました。のんびりした時代でした。
写真:新金橋より見た新富光景。高速道路ができた1960年代(左上)と2006年(右上)
1964年の東京オリンピック開催にむけて、急ピッチな建設ラッシュが始まり、みるまに川がなくなり、そこには高速道路できました。 最初にできたのが上野~羽田1号線です。 日本の象徴でもある日本橋の上にもおおいかぶさるように高速道路がかかり、みるも無残な薄暗い橋になってしまいました。
2006年8月、高速道路を地下にして日本橋を元に戻そうという政府の構想があるという新聞記事を読みました。どのくらい年月がかかるのか?新しく、明るくなった日本橋の姿を見たいものです。
(I.Yamada)